荒んだ思春期があったから、今のカークのサウンドが生まれた
カーク・フランクリンは、1994年に “The Reason Why We Sing “という大ヒット曲で、教会に通う新しい世代や教会に通っていない子供たちにゴスペルを紹介した。
1970年1月26日、テキサス州ダラスに生まれたカーク・フランクリンの人生は、当初から荒んでいた。
彼は生まれてすぐに未成年だった母親に育児放棄され、熱心なクリスチャンだった叔母のガートルードに育てられ教会に通い詰めた。ガートルードは幼いカークの音楽的才能に早くから気付き、彼のピアノレッスンの費用を捻出するために一年中空き缶を拾い続けた。彼はすぐに才能を発揮し、11歳の時にはマウント・ローズ・バプティスト教会で大人の聖歌隊を率いていた。
思春期には反抗期が始まり、荒れた仲間と付き合うようになる。多くの黒人少年がそうだったように、カークもストリートでドラッグ・ディーラーのようなギャングの下っ端の仕事をするようになるが、友人の一人が銃で撃たれたとき、カークは自分が破滅への道を歩んでいることを悟り、教会に戻り作曲を始めた。
彼は後年「多くの仲間がストリートで命を危険に晒さないようにするためには、若者が大好きなヒップ・ホップの要素をゴスペルに取り入れ、より多くの若者を教会に導くしかないと考えた」語っている。



最初の成功は名盤「Kirk Franklin & The Family」
ビービー・ワイナンスやダリル・コーリーなど、ゴスペルの大物アーティストが街にやってくると、カークは音楽ビジネスについて彼らのアドバイスを求めた。(余談だがダリル・コーリーは、薬物中毒でサンフランシスコのベイエリアに帰っていたジョン・P・キーがゴスペル界に入る手助けもしている。)
1991年、彼は「ファミリー」というクワイアを結成した。
彼らは、地元でデモ・テープを録音し、最終的にそのデモをコーリーに渡した。その頃、コーリーと妻のジェネル、そしてヴィッキー・マック・ラタイヤードの3人は、一緒にビジネスをすることを計画していた。
ヴィッキーはGospo Centric Recordsを立ち上げる予定だった。彼女がレーベルを運営し、コーリーはA&Rの責任者、ジェネルはアーティストのマネージメントを担当する。
ベティ・グリフィン・ケラーやA・L・スウィフトなど、レーベルが最初にリリースしたアーティストは、あまりうまくいかなかった。
「ジェネルは、ヴィッキーにカーク・フランクリンのデモを聴くように何度も頼んだ」と、レーベルのアーティスト開発担当副社長だったネリー・ディッカーソンは言う。「そのテープは、ダリルがヴィッキーに渡すのを忘れて、何ヶ月も車の中にあったんです。」一方、カークはダリルに電話をかけ続け、そのテープを誰かに聞かせなかったかと聞いていた。
続けてネリーは言う。「ダリルは才能があると思ったアーティストはどんな形であれ助けるんですが、ただその時は彼はテープを持ってくるのを忘れていました。結局、ジェネルと私がテープを取りに行ったんです。」
「私たちはオフィスに行って、2日間、一日中それを再生しました。一日中聞いて、ヴィッキーは「何度聴いても飽きないわね。私はそれが好きなんだと思う。3万枚くらい売れるかもしれないな』と言った。僕は『いや、10万枚は売れると思う』と言いました。ヴィッキーは笑って、私にそれはクレイジーだと言いました」。
マック・ラタイヤードは、粗雑に作られた録音をきれいにし、欠点がなくなる程度に何度もミックスした後、それをリリースした。
ザ・ファミリーのセルフタイトルのCDは、1993年7月のゴスペルアルバムのセールスチャートで32位を記録した。シングル「The Reason Why We Sing」が数ヶ月間、そこそこの成功を収めた後、この曲は一巡したかに見えた。
しかし、その後に起こったことは、現代のゴスペルの流れを変えることになる。ディッカーソンは、「これはチームワークだった。閃きによる妙案でもなければ、計画的でもない。偶然か必然かはわからないが、何か大きな力がチームワークを生み出し、そして奇跡が起こった」と後に語った。
東海岸のラジオ・プロモーターであるアイク・オーエンズは、ヴァージニアのR&Bラジオ局、WOWIに送ることを思いついた。彼はそれをプログラム・ディレクターのスティーブ・クランブリーに渡したが、彼はそれをとても気に入った。彼は何週間も毎日、一日中この曲を流し続けた。
リスナーの反応もすごかった。スティーブ・クランブリーはシカゴのエルロイ・スミスなどの番組ディレクターの友人たちに電話をかけ始め、彼らがレコードをかけるようになった。
エルロイ・スミスがシカゴのWGCIでこの曲を流し始めると、そこでも同じようなリスナーからの反応があった。当時、WGCIには、シンジケート・ラジオのホスト、トム・ジョイナーがまだいた。彼は、全国放送のラジオ番組を始める前、この局でトップアナウンサーとして活躍していた。カーク・フランクリンとその家族が住んでいたダラスを拠点にしていたジョイナーが、この曲を流し始めると、一気に盛り上がった。
「カークはすでに2枚目のアルバムを録音していて、私たちはそれを出す準備をしていました」とディッカーソンは続ける。「そのアルバムのタイトルは『Whatcha Lookin’ 4』。アートワークも何もかも終わっていて、もうほとんど発売可能な状態になっていたが、この曲がR&Bラジオでヒットしているのを見て、カークは”ちょっと待てよ。あとどれくらい売れるか見てみよう」と言いました。その時点で10万枚売れて、みんな喜びました。それまでにGospoで出した他のアルバムを全部足してもそこまでは売れていなかったんですから」。
結局、この曲は1年後にR&Bシングル・チャートで28位を記録した。
突貫録音のクリスマス・アルバム
カークは、自分達の音楽が時代遅れだと思われる前に、リリース可能なCDをすぐに販売したいという意向を持っていた。しかし、レーベルの全員がセカンド・アルバムを保留にし、代わりにクリスマスCDを急いでリリースした。「その日は7月3日で、母の誕生日だから忘れられない」と、ディッカーソンは言う。「みんなでダラスに行って、スタジオを借りたんです。クリスマスツリーもあったし、七面鳥やドレッシングも持ってきてもらった。私たちは緑と赤の服を着ていました。クリスマス気分を味わいながら、1日で全曲をレコーディングしたんです。」
その年、カークには嬉しいクリスマスプレゼントがあった。彼の最初のCDはプラチナに認定され、クリスマスソング “Jesus Is the Reason for the Season “で2曲目のR&Bヒットを飛ばした。
時代の頂点へ・・そして仲間との別れ
カーク・フランクリンのハードなアーバン・サウンド、洗練されたビデオの振り付け、R&Bのサンプリングは、一部のゴスペルアーティストを躊躇させた。
シャーリー・シーザーはかつてゴスペル業界誌 Gospel Industry Today に、「私はそういうゴスペルに慣れていなかったので、彼を見て顔をしかめたこともありました」と語っている。「でも、クラーク・シスターズやホーキンス・ファミリーが出てきたとき、彼らはそれをコンテンポラリーと呼んだ。20年後、私たちが今聴いているものと比べれば、それは伝統的なものです。だから、あと15年経てば、彼のやっていることはトラディショナルになるだろうね」。
カーク・フランクリンは1990年代にゴスペルを若返らせ、他のレーベルはゴスペルアーティストの予算により多くの資金を投入するようになった。
一方、カークは「Melodies from Heaven」(1996年)や、ファンカデリックのサンプルを使い、ソルト・ン・ペパのシェリル “ソルト “ジェームスがゲストボーカルとして参加したゴッズプロパティの「Stomp」などのラジオヒットを続け、大成功を収めた。「Melodies ~」を含んだ3rd アルバム「Whatcha Lookin’ 4」はグラミー賞を受賞、また「Stomp」の入ったアルバム「God’s Property」は200万枚以上を売り上げ、R&Bシングルチャートで2週にわたって1位を獲得した。(ちなみにゴスペルの曲がR&Bチャートで1位を獲得するのは、エドウィン・ホーキンス・シンガーズの「Oh Happy Day」以来27年ぶりの快挙だった。
しかし、その成功は、自分たちが印税を受け取らずにレコードが売れるのを見た聖歌隊のメンバーから、抗議を受けることになった。「1994年当時、あるファミリーのメンバーが私に言った最初の言葉のひとつが忘れられない」とカークはGospel Industry Today 誌に語っている。
「彼は、歌を歌ったのにその歌から印税が入らないことが理解できないと言いました……。彼はただ理解できなかったんだ。なぜ印税がソングライターの手に渡るのか……。ビジネスの仕組みについて無知だったんだ。あのアルバムの90パーセントは私が曲を書き、プロデュースしたものだ。あのアルバムのソングライター、パブリッシャーの名義は私であり彼らではない。そしてその報酬はレコード会社から自動的に支払われるんだ……。最初のロイヤリティチェックから、彼らは私と問題を起こしていたのだ。ゴッズ・プロパティーの訴訟は、メン・オブ・スタンダードのような他の訴訟(レコード会社を訴える)を引き起こしたんだ」。
ブラック・ゴスペル界という狭い世界には収まらない実験的な活動へ
訴訟が解決した後も、カークは自分のキャリアにエネルギーを注ぎ続けた。
彼はABCのSitcoms(主演予定)の企画に多くの時間を費やしたが、それは制作される前に棚上げされた。
1999年に発表したオールスター・アンセム「リーン・オン・ミー」(ボノ、R・ケリー、メアリー・J・ブライジ、クリスタル・ルイスが参加)はR&Bシングルチャートで26位、ポップシングルチャートで79位にとどまったが、レーベルがこのような主流派のスーパースターを揃えた割には期待したよりもはるかに控えめな成功だった。R・ケリーはつい最近、少女への性的暴行容疑など複数の罪状で禁錮30年の判決が下ったが、この当時から多くの「疑惑」が報じられていたため、多くのキリスト教放送局では、この曲を放送禁止にした。そして、クリスタル・ルイスとカークだけの新バージョンをリミックスしたところ、ゴスペルやCCMのラジオ局でも演奏されるようになった。
しかし、またもや長年連れ添った「ファミリー」のメンバーとも訴訟合戦が勃発、カークは新たな少人数編成の「1NC」としてアルバムを発売。しかしこれはセールス的には失敗に終わった。
カークは再度伝統的なチャーチ・サウンドに戻った。2002年に発売されたCD「The Rebirth of Kirk Franklin」は発売週に9万枚以上を売り上げ、ウィリー・ニール・ジョンソン、シャーリー・シーザー、リチャード・スモールウッドといった伝説的なアーティストがカメオ出演している。
常に傍にはスキャンダル。でもそれもカーク。
近年、カークはカリスマ誌にポルノ依存症を克服したことを告白し、説教を始めている。
同世代で最も影響力のあるゴスペルアーティストの今後の活躍を世界が待ち望む中、彼は謙虚な姿勢でいる。人気や富、No.1チャート、リムジン、自家用ジェット機を求めたら、神様が『お前はダメだ』とおっしゃるんじゃないかと心配なんです。そして、私を切り捨てるだろう」と彼はゴスペル・トゥデイに語った。「私は神が祝福した汚物でしかない」
2022年もカークのニュースはスキャンダラスだった。息子がカークとの電話の会話をタブロイド誌(日本の週刊文春みたいなやつ)に売りつけ、その内容が酷いと話題になっていた。
しかしコロナ禍に多くのアーティストが出演している「Tiny Desk Concert」では相変わらず、元気な姿を見せてくれている。







