Mahalia Jackson (マヘリア・ジャクソン)

多くの人に勇気と希望を届けた世界的ゴスペル歌手

Mahalia Jackson ( 1911-1972)は、ゴスペルシンガーだけでなく、テレビパーソナリティ、公民権活動家としても多くの功績を残しました。

彼女は「Queen Of Gospel (ゴスペルの女王)」と呼ばれ、ゴスペルミュージックの史上最高の歌手の一人として、ブルース・フィーリングあふれる豊かな表現力と力強い声で世界中の多くの歌手に影響を与えました。

彼女がこのようにゴスペルの第一人者として君臨することになった要因として、彼女の歌が力強い躍動感と尊厳および強い宗教的信念を組み合わせたものであったことは当然ですが、全世界にレコードやテレビジョンが普及し始めた時代であったことで、それまでの時代には考えられなかった知名度を得ることができたのではないかと思います。

幼年期~トーマス・A・ドーシーとの出会い

マヘリア・ジャクソンはルイジアナ州ニューオリンズで生まれました。幼少のころから日常生活の中で当たり前のように讃美歌を歌いましたが、土地柄もあって自然とベッシー・スミスやマ・レイニーなどのブルースアーティストの世俗的な音に影響を受けていました。彼女は家族を支援するために中学2年生で学校を中退しました。看護を学ぶ目的で10代の頃シカゴに移った後、彼女はグレーター・セーラム・バプテスト教会の聖歌隊と、ジョンソン・ゴスペル・シンガーズでプロとして歌い始めました。

彼女が「ゴスペル音楽の父」として知られる作曲家トーマスA.ドーシーと出会ったのは、1929年。その後1930年代半ばに教会のプログラムやバプティスト全国大会などでドーシーの歌を歌いながら、14年間ドーシーのゴスペルを普及させるためのゴスペル協会活動に携わりました。

ゴスペル・アーティストとしての成功​

1946年にマヘリア・ジャクソン名義の曲「Move On Up a Littler Higher」を録音し、10万部を売り上げ、最終的に100万部を超えました。1947年までに、彼女は全国バプテスト大会の公式ソリストになりました。

マヘリアのその他のミリオンセラーとしては”In the Upper Room” (1952), “Didn’t It Rain” (1958), “Even Me”  “Silent Night” などが有名です。彼女はキャリアの間に約30枚のアルバム(主にコロムビアレコード)を録音しました。彼女はまた、映画「Imitation of Life」、「St。LouisBlues」、「The Best Man and I RememberChicago」にも出演しました。

1950年代半ばまでに、彼女はシカゴでラジオやテレビ番組を放送し、全国的な番組(エド・サリバン・ショーなど)にも頻繁に出演しました。この間、彼女はシカゴにフラワーショップを所有し、コンサート・アーティストとしてツアーを行い、コンサートホールに頻繁に出演し、教会にはあまり出演しませんでした。

1950年に彼女はニューヨークのカーネギー・ホールで演奏した最初のゴスペル歌手になり、1958年にニューポート・ジャズ・フェスティバルでも同じく最初のゴスペル・アーティストとして出演を果たしました。この時代のニューポート・ジャズ・フェスはまさに時代の中心となるものであり、そこに出演するということは全米から認められたアーティストという称号を得たようなものでした。(逆に言えばマハリアが世俗的、もしくは商業的なゴスペル歌手というレッテルで見られているのも、このような驚異的な成功を収めたことが大きな要因かもしれません。)

マヘリア・ジャクソンと公民権運動

マヘリアを語るうえで外せないのが、やはり50~60年代における公民権運動との関わりではないでしょうか?

1956年、マーチン・ルーサー・キング牧師をはじめとする公民権運動の指導者たちはマヘリアに、集会、行進、デモに彼女の強力な声と財政的支援の両方を貸すように求めました。キング牧師の右腕であり、今もなおブラック・コミュニティにおいて大きな影響力を持つ指導者ジェシー・ジャクソン師の回顧録では「マヘリアは60年代の公民権運動において最も重要な支援者であり、キング牧師の講演の多くに同行しその力強い歌声は聴く人の心を支え、勇気づけた。彼女はキング牧師に頼まれたら、人種差別の特に厳しかった深南部の地域でさえもためらうことなく同行した。」と書かれています。

とくに有名な話としては、1963年8月23日に20万人が集まったワシントン大行進の際に、キング牧師はいつもの公民権運動用の演説を用意していましたが、直前にマヘリアが「前に地方の講演会でしたあの” 夢の話 ” をみんなに聞かせてあげて欲しい」といい、急遽変更され語られたのが、アメリカの教科書にももっとも説得力のある最高のディベートとして紹介されている「I Have A Dream」だったと言われています。キング牧師の葬儀では、彼が最も愛したゴスペル曲「Precious Lord, Take My Hand」を歌いました。「We Shall Over Come」をはじめとするこの当時の彼女の歌は、まさにFreedom Song として歴史に残っています。

マヘリア・ジャクソンが歌うゴスペルは、神様が私たちに与えてくれる「希望」と「光」

マヘリアは幼いころに母を亡くし、幼少時代は食べるものもろくに食べられないほどの極貧生活を送りました。

歌の世界で成功し、世界的な知名度を得た後でさえも日常的な人種差別は根強く、シカゴの白人居住区に建てた自宅には銃弾が撃ち込まれるなど、彼女の人生の多くの時間は差別や苦難との戦いでした。

でもマヘリアは決してつらさや悲しみをブルースに乗せて歌うことはしませんでした。有名になってからジャズの王様デューク・エリントンにレコーディングとツアーを誘われたときにも、彼女は「私が口にするのは、神の音楽だけ」と断ったそうです。彼女は「希望」と「光」を歌う歌手でした。

私の知り合いのクリスチャン・ゴスペル・シンガーの方が「マヘリアのゴスペルはどうも商売っ気が強すぎて、私は好きになれない。だって彼女のゴスペルは礼拝の賛美を目的にしたものではないから・・」と言われたのを思い出します。

まあその人の好みだし、その人にとっての「ゴスペルはこうあるべき」という一つの意見だと思いますが、社会的最弱者であった黒人奴隷の生命や権利、そして心を支えるために歌われた黒人霊歌の役割と、マヘリアが積極的に参加した公民権運動で弱者を支え鼓舞するために歌われた「We Shall Not Be Moved(古い黒人霊歌” I Shall Not Be Moved “の主語が変わったもの)」や「How I got Over」「Precious Lord, Take My Hand」などのゴスペル・ソングが多くの人の心を支え、勇気を与えたという意味では役割は同じだと僕は思います。

こう書いてからいうのもおかしいですけど、ゴスペルに「こうあるべき」なんて役割つけるのはなんか馬鹿げています。教会の外であれ、中であれ、どのような時でも、どのような人にとっても、求められた時にすでに与えられているものこそが「ゴスペル(福音)」です。神様の恵みなんて、大抵は後で思い出したように気付くものであって、僕らがその目的や役割を決めて歌うものではないんじゃないかと思っています。

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